おかげの泉 第十二号 昭和四十五年八月二十九日 朝の御教話より

X御理解 第十二節 「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ空が神下が神」

 空を神、下を神、いわゆる天地そのものを、神と観ておられます。そこでこのように教えて頂くから、そうだなあ、そんなら天地が神様だなあと、なる程、空が神だなあ、下が神だなあという事を実感出来る、本当にそれを、神様と感じれる。言うなら神そ見、神と感じる目と心を養うていくという事が信心だという事がわかります。
 教祖様がご覧になる神様の場合、いわゆる庭の口を外へ出てみよ、空が神、下が神だと、自分がそう頂いておられるように、そう教えておられる訳です。いわゆるお道の神観です。
 そこで、そんなら天地が神様だと、もう説明を聞かせて頂いただけでは何もならん只、天地を拝むだけではいけません。拝まなければおられないもの、そこにはね、いわゆる神と見、神と感じる目と心を養う。天地を神と見る、又はそれを神と感じる、その目と心を養う。お芝居なんか、特に歌舞伎を見ておりますと、女の役を男が致します、女形(おやま)と言います。あれは男性だと知っておっても、見ておって、男性と感じない、むしろ、女以上の女をそこに感ずる。
 それが、やはり芝居が好きであり、芝居が巧者になればなる程、あれは男じゃというふうには思わん。巧者になれば巧者になる程、やはり女と見る、結局俳優の演技ですけれど・・・・・天地も同じ事、天地が神様だと教えられただけでは、なかなか神様とは感じません。その証拠に言うなら、天地が一目に見てござるとわかっておっても、平気で神様の心に反するような事をするでしょう。
 それは理屈の上ではわかっておっても、心から天地を神様と思っていない証拠ですねぇ。そこでそんなら私共が、天地の道理とでも申しましょうか、天地の御恩徳と言うてもいいでしょう、いわゆる天地の中にある、ひとつの働きというものをです、様々な角度から勉強する、研究する、又、信心によって、そこのところの体験を積んでいく、いわゆるそれを真理とも申します、又は、法則と言うてもいいでしょう。
 天地間の、そういう真理というものを、いわゆる本当な事と言うのですよ、その本当な事をわかっていく、なかなか難しい事です。稽古しなければわかる事じゃありません。天地の法則と言うても、天地には天地の法則がある、きまりがある、と言うても、それを信じないから、天地の心に反する生き方を平気でする。それを、もし信じたら、天地の法則に従うた生き方をしなければおられないのである。天地の法則に従うていく、その天地の法則に従うていくという事は、天地を信じなければ出来ません 例えば人間の生活の中にも、税法とか、刑法とかありましょう、脱税等をしておりますと、やはり違反致しますから、又、倍にも三倍にもとられてしまう、いわゆる罰をこうむらなければなりません。
 刑法でもそうです、刑法を無視しておりますところにです、いわゆる苦しい監獄行きがある訳なんです。罰金がある訳です。これは、刑法を無視しているからです。
 そこで人間が本当に幸せになる為にはです、その天地の法則と言い、その天地の中ある真理というものを悟らせてもろうてです、その真理にもとづいた生き方、本当の生き方、それを教祖は、実意丁寧神信心と、言わば実意の限りを尽くした生活の姿勢を作っておられる。
 本当な事と思うておっても、より本当な事があったら、そこんところを、スキッとこう改めていける信心、そういう私共が、言うなら教えにもとづいた天地の心を心とした生き方、本当な事がわかって、本当な事を行じていき、天地の中の言わば法則をわきまえて、それに背かない、いわゆる刑法なら刑法に背かんようにしていけば、警察は決してこわいものではない、脱税やらしとるから、びくびくせんならん。
 そういうびくびくせんで済む生き方をです、いわゆる安心の生活という、そういう安心の生活を目ざしての信心、そういう信心が行の上にだんだん表れてくる。日々の生活の中にそれがとけこまれてくる。いわゆる何事も真心になれよというのはそれなんです。そこから生まれてくるのが体験なんです。そういう例えば稽古、そこからね言うならば信心が好きになる。お芝居が好きになると見る目が違うてくる、見るところが違うてくる。それを只今、女形の例をとりましたが、巧者になればなる程、そこにいわゆる、女形の演技にです、同じような女を感じて、恍惚として見ておられる。 私共がそういう只今申しましたような信心の稽古をです、只、参りよります、拝みよりますというだけじゃ駄目なんだ、天地が神様じゃからと言うて、天地をいかに拝んだところで、そこのところの体験を積みながら、そこのところの真理がわかり、言わば、法則がわかり、それに従うていく生き方というものがです、こんなにも有難いものだとわかる。
 芝居を段々見ていって、芝居というのは、こんなにもおもしろいもんだという事がいよいよわかっていくように信心にも、このように楽しゅう、このように有難いものだとわかってくる。そこからね、いわゆる天地を神と見る目が出来てくる、又は、神と感じる心が養われてくる。「天地そのものを神と見、天地そのものを神と感じる目と心を養う」今日はここのところに焦点を置いとりますから、ようく覚えといて下さいよ。昨日、若先生それに青年会の幹部の人達が三、四人寄っとりました。四時の御祈念が終わってそこのお縁でお茶でも頂きながら、信心のよもやま話を頂いとたんですが、「親先生、最近の朝の御理解はもう、大変難しい。もうちょっと他の事ども考えよったら全然わからん。一生懸命頂きよっても、素晴らしいなあ、素晴らしいなあと思うて頂くがそれを繰り返し頂きよらねば有難いという事がわからん。昔のようにお話を聞いただけで誰でも感動しよったようなそんなお話は出来んものですか、今のお話は少し難しすぎますよ」と言うのです。
 なる程、椛目時代は、御教えを元にしてと言うても、このように正確な教えを元にしてじゃなかったです。今はもう、一言一句間違いのないように、教典そのものの中から、教祖の言うなら、今日の御理解でもですねぇ、「神に会おうと思えば庭の口を外へ出て見よ、空が神、下が神」とたったそれだけの事の中に今私がお話をしている事はもう、大変な事なのです。
 只、天地が神だとわかって、天地を拝んだだけでおかげを受けられるもんじゃないという事なんです。それを本当に、神と見、神と感じれる、目と心というものがです養われなければ、これは反故のような事になってくるのです。
 これが金光教の神観だと、説明だけは出来ます。そんなら、その神は、どういうふうに我々に働きかけて下さるのか、どういうふうに私共に何を求めておるか、といったような事をです、求めに応じて、信心が出来なければ答えが出てこない。
 ですから、なる程、これは合楽に教会としての、おかげを頂いてからこの方というのは、全部教典を元にしての、御教えが頂けとりますから、その教典をずっと深めておる訳です。だから例えば今日の第十二節なら十二節だけでも、もう何十回頂いたかわからんのです。ですから、御理解第十二節と言うのをです、私がここ三年間なら三年間説いて来た事をずっと、十二節だけ集めますとね、大変な大きな御本が出来るでしょう。第十二節だけでも・・・・・。
 そして、金光教の信心はどうも舌足らずだと、それは、教団人の中にでもそれを、平気で言う人達がある位です。なる程、表面に出ておるだけなら、本当に足りないものを感じますけれども、そんなら、教祖の御教えの深さに触れて参りますとです、それこそ、仏典に、又はキリスト教のバイブルなんかに匹敵すると言うより、それこそキリストが又は、釈迦が説き得ていないところが、金光教の御教えの中にはあるのですよ。ですから、大変な事なのです、言うならそういうふうにひとつの十二節なら十二節でも、そんなら、三十辺聞いたからと言うて、三十辺ながら違うでしょうが。
 というように、この一節からでもそのように大変な今日、私が言う法則があり、真理がその中にひそまれておるのですよ。そんなら、若先生のように、なる程、ぼんやりしとったんじゃわからん。ですから、皆さんがこうして、一人々教典を聞いて帳面を開いて速記していかれます、それをね本当にもう一辺かみくだいてみるとか、もう一辺、御教えを頂いてみるとかしなければ本当の事がわかるはずはありません。
 だから、言うならそうでしょうが、椛目から合楽を通じて、そんなら二十年間という、いわゆる信心の稽古してきとるのですから、いつ迄も幼稚園のごたる信心じゃいかんでしょうが、少しは頭をひねらなければ、少しは心を本当にそこに向けなければわからないという位な御教え、そんなら、私が説いておるこの言葉というのもは、誰でもわかるでしょうが、中にはお年寄りの方達が「どうしても親先生のお話は文高(ぶんたか)か」と。実を言うたら私の話は、文高かどころじゃない、私のは、非常に平易と自分で思います。そんな難しい事をしゃべる訳じゃありません。
 けれども、その内容はやはり難しい、それからと言うて、私がそんなら、椛目時代のような行き方にするという訳には参りません。これはもう、皆さんの為のものだけではありません。もうそれこそ、金光教の言うならば千年の計とでも申しましょうかいつかは、合楽の私が説いている事を、誰かが勉強したい、追求したいという人が出てくるにちがいない。今ここでも御理解研究、教学研究というのは、随分やっております。そういうのが本格的になって参ります時にです、言わばもの言うてくる御教えだと思いますから、これは只皆さんだけがおかげを受ければよいというのではない。 これからは本当に金光教の信心を追求して、本当にわからせて頂こう、素晴らしい信心だというところ迄です、お道の信心をひとつづつ、いわゆる完璧なものにしていくという事はこれはやはり、私共の責任です。
 例えば仏教なら仏教でもそうでしょうが、例えば真宗に親上鸞人という偉いお方があった。けれども、その親鸞の後を継いだ二代が三代が四代が偉かった。そして、お釈迦さんの教えを、親鸞が言わば解説しておる、又、自分の体験から、仏法を説いておる。それを受けた弟子達が、又、それをいよいよ深いものにして現在の真宗がある訳です。
 ですから、私共が教祖様のこのいわゆる教典をです、又は、金光大神覚といったようなね、ものを原典としてです、金光教の信心の深さ、広さというのもをね、広げていき、深めていかなければならん。この金光大神覚というのが教団でも正面に出されておりますけれども、こうして、教典を毎日々頂いておりますが、これはいわゆる尽きる事がない。おそらくこれは、私が一生他に手が出されんだろうと思う位に言わばその御教えの深さに驚く。そんなら、今日のところもそうです、これは教祖が感じられた神様、いわゆる神観、いわゆる外に出て見よ、空が神、下が神とこうおっしゃるそんなら、教祖がそうおっしゃるから、天地を拝みよればいいと、もうそういう素朴な信心では、もう現代の人達には通用しないという事。
 それとて、その神を、いわゆる天地を本当に神と感じれる、神と見れる目と心を養う事をしなければそんなに教えられたからと言うて、天地を拝めない。拝むという事は、天地の心を心として、拝んで行じて行く事につながっておらなければなりませんね。只、形の上だけなら、誰でも出来る。どうでしょうか、そういうところに現在の合楽で頂かれる御理解を頂いておられる方達は、もうそれこそ、有難いものを燃やして、御理解を頂かなければいけないと思う。
 そこで空が神、下が神、と仰せられる。いわゆる天地の事ですから、その天地の心が、心としてわからしてもろうたら、それこそ、偉大と言うか、もう限りないと言うか、その天地の中のおかげをここに集める事が出来る程しの、おかげを頂いていくのが、信心させてもろうて、お徳を受けていくという事。
 昨日ある方から、こういうお届けがあった、夕べ00さんから、私に電話がかかってきた、そちらの息子さんが熱心に信心する。ところが今頃は、もう合楽々というてもう家の仕事も手につかんようにある。そうでもないと思うのですけど、そんなに親には、見えるのですよねぇ、合楽々と今迄、全然言わなかったものが行くものですから、毎日々合楽通いをするもんですから、いかにも、自分方の仕事が、出来よらんように信心の無い人達は思うのです。だから、信心も決して、悪いとは思わん。だからひとつ、お参りも少しはいい加減にしてです、まあ十回参るとは、半分にして少し、家の方の仕事に身を入れるように、あなたから言うて下さらんかという電話が来た。 だから、本当に信心させて頂いて、自分の仕事を放たらかしてから、信心々と言う事は、これは褒めた事じゃありません、それこそ頂いた御教えがそのまま生活の上に仕事の上に表されていくところに、お道の信心の素晴らしさがある。いわゆる家業の業という値打ちがあるのですから。けれども、全然信心の無い両親は、只ここに通うて来るというだけで、そういった仕事が疎かになっておるという見方をする訳です、それで、ある人を介して、私に言うてくれと、こういう訳なんです。けれども、私はもう絶対です、あなた方がどんなに頼みなさったって人間心で誰さんにどうこう言うという事は絶対言いませんから、どこ迄もやはり取次者としては、そんな事ではね、おかげにならんです。ですから、私は頼まれたからと言うて、言おうとも思いませんでしたけれどもです、しかし神様にお願いをしなければならん。やはり、その人の両親も信心を認めてくれ、又、ひとつは両親自身も、信心になる位な、おかげを頂いてもらわんならんから、私それを、お願いさせて頂いておりましたらね、『かぼちゃ』を御心眼に頂いた。
 私は本当に、昨日それを頂いてから、思いました事はです、本当に教えの限りない広さに驚いてしまいました。ここでは、かぼちゃのお知らせは、馬鹿と阿呆で道を開けと、頂いておりますねぇ、福岡教会初代教会長のいわゆる信心であり、又、その流れをくむ私共も、だから、その馬鹿と阿呆になる事に、本気で精進させて頂き、それこそ天地の中にあるおかげをですね、いわゆる底の抜けたような程しの素晴らしいおかげを無尽蔵に限りなく頂きたい。為にはひとつ馬鹿と阿呆になれと、四神様がおっしゃっておられるように「大海には鯨が住もうが、竹の筒に水がたまったような信心するから、ぼうふらがわくようなおかげしか頂かれんのだ、大海のような信心せよ、大海には鯨が住もうが」と鯨が住む程しのおかげが受けられる。
 為にです、馬鹿と阿呆で、いわゆるもう底がぬけたように、どんな事を言われてもあっても、それを気にならない位のです、底の抜けた本当の意味に於いての馬鹿と阿呆にならして頂くところから、もう底がないのですから、そのかわり入ってくるのももう限りない。いわゆる無尽蔵のおかげの徳とでも申しましょうか、そういうおかげを頂けれる為に、お互い馬鹿と阿呆にならにゃいかんという訳ですねぇ。
 ところがです、私は、昨日、その事を、お取次させて頂いてから、そのかぼちゃのお知らせを頂いてから思うた事は、例えば信心に夢中になる、いわゆるそれを人は、うちの息子はもう、金光様にぼうけたつじゃなかろうかと言う事になる訳です。
 周囲の者でも、あそこは、もう金光様一家で、もう金光様の事になら、もうそれこそ、何もかもなか、金光様気違いと、言われるような時代、いわゆる信心に夢中になる事はね、いよいよ馬鹿と阿呆になる元が出来ておるのであると、だから、皆さんは馬鹿と阿呆になる・・・・・と言うけれどですね、只、辛抱して、馬鹿になっときゃよかでは駄目だという事、その馬鹿と阿呆になるひとつの元というのはね、一辺ぼうけてみれという事なんです。
 私共がそうだったでしょう、随分といろんな非難もごう々としてあった、いや両親ですら、家内ですら、あなたの信心にはついていけないと、親達も言いました。いわゆるぼうけきっとった訳です。私にとって、両親はもうそれこそ、この世にかけがえのない大事なものだ、大切なものだ。
 愛すると言うなら、お前位、世界中で愛しておる者はおらん。けれどもです、お前がどげん言うたって、両親がどんなに言われてもです、私は、神様の仰せには背かれんという生き方、いわゆるぼうける。人はそれをぼうけるという。
 随分あっちこっちから、忠告も受けました。けれどもね、やはりその言わばそうして、信心に夢中になって、一生懸命になっておる時にです、本当の意味に於いての馬鹿と阿呆、大きなおかげの受けものの基礎が出来ておったという事です。なまじっかの信心で、馬鹿と阿呆になれるとは、絶対思われない事を、昨日改めて、私はわからせてもろうた。素晴らしいでしょう。ぼうけにゃいけませんよ。これは、この人にいらん事どん言うこつじゃないなあと、こう思わせて頂いた。
 お互いがひとつ本当に、限りがない程しのおかげの受けものを頂く為に、やはり、馬鹿と阿呆に人からは言われたり、思われたりする位な、そげんあんた熱中せんでもと言われるようなところを通るという事が、尊い事が。それが馬鹿と阿呆になれる元が出来ておるという事は、大きなおかげの受けものの元が、出来ておるという事になるのです。
 大変な進展をして、参りましたですね今日の御理解は、いわゆる御理解第十二節の只簡単なこれだけの事が、今日私が皆さんに聞いて頂いたような内容もここの中にある事なんです。だから、神に会おうと思えば庭の口に出て見よ、空が神、下が神という事は、観念的にわかるけれども、その神の働きとして、神の心としてです、それを見たり、聞いたり出来る為には、私自身が、様々な言うなら、ここで言われておる神様を大事にすると言うても、成り行きを大事にしなかったら、神様を大事にするとは言えない。神様の働きそのものを大事にせよという生き方がです、いかに、そこに神様を見る事が出来、感じる事ができるひとつの修行であるかという事がわかりましょう。そして、初めて、なる程天地が神だという事がわかる、外に出て見よ、空が神、下が神というただけしか教えちゃない。言葉には・・・・
 けれどもそんなら、今日の御理解を頂きますとです、そのような在り方、又は、信心修行から、言わばそれを本当に、神と見、又は、神と感じる目と心が、養われてくる。そこに日々を、神の中をわけて通りおるようなものだという実感をもった日々、有難い勿体ないその生活が、出来る訳ですね。
                 どうぞ。